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聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.                    記念日 6月 18日



 聖ユリアナ童貞は、かの聖母の僕会の7人の創立者達がフィレンツェに男子修道院を起こした時、同じ目的で除し修道院を創めた人である。

 彼女は1270年イタリアの貴族ファルコニエリ家に生まれた。それまで長い間女子に恵まれなかった両親は、喜びのあまり一つの美麗な聖堂を建てて聖会に献げたが、それこそ今もユリアナの墓所として知られている至聖なる御告げの聖堂に他ならない。
 さてユリアナは独り子であったので、父母に手の中の玉といつくしまれて健やかに生い立ち、教育も殊更入念に聖教の旨に従って施されたが、16歳を迎えると、両親は彼女にしかるべき養子を取って家を継がせようとした。ところが生来信心深く、この世の財宝や快楽を望む心のないユリアナは、生涯身をイエズスの浄配として献げたいと、熱誠おもてに溢れて申し出たから、親も相談の上遂にその願いを聞き入れるに至った。かくて彼女は童貞の誓願を立て聖母の僕会の総長であるフィリポ・ベニチオからその第三会員に加わる事を許されたのである。
 それからユリアナは在家のまま、ベニチオに与えられた戒律に従って修道に励んだが、母の没後20年を経た頃、志を同じくする童貞女等数人と、始めて協同的修道生活を営む事とした。そして自分ではいつまでも姉妹達の末席に留まりたいと望んだものの、彼等のたっての懇望黙し難く、とうとう院長の重任を帯び、一院の慈母として全修女達の上を配慮し、実践躬行彼等に模範を垂れ、ある時はその婢の如くになって彼等の為に尽くした。なおユリアナはそれまで一定の会則がなかったのを憂えて、わが豊かな体験から適当な戒律を編纂し、教皇マルチノ5世に送って認可を受け、また姉妹達の修道服をも制定した。
 ユリアナは慈善の業を非常に重んじ、戒律の中にも之を加えた外に、しばしば自分で、或いは暇のない場合には部下の修女を遣って、フィレンツェ市中の病人を慰問した。苦行に対してもたぐいまれな熱心を示し、例えば大斉の如きも、毎週水曜と金曜とには全然食物を摂らず、土曜にも僅かしか摂らぬという風に徹底的に行った。そして祈りに就いては、会則に定めてあるだけでは足れりとせず、自ら進んで様々の祈りを献げるのであった。
 かように克己修道に努めること37年、71歳の老齢に達した彼女は、胃を病んで危篤に陥った。吐瀉が激しいので御聖体拝領も許されなかったが、その切なる願いにより司祭はせめてもの心やりに、仰臥している彼女の胸に白布をかけ、その上に至聖なる御聖体を載せてやった。ユリアナは恭しくそれを礼拝しつつ霊的に御聖体の主と一致し、喜びの色をたたえながら安らかに息を引き取った。それは1341年の6月19日のことであった。
 後人々は聖女の遺骸を洗おうとした時、その胸にくっきりと丸い御聖体の形が、それに描かれている十字架までも明らかに印せられているのを見いだしたという。

教訓

 我等は聖女ユリアナから、望みの御聖体拝領、及び臨終の御聖体拝領を重んずべき事に就いて学びたい。公教要理には臨終の御聖体拝領を、年に一度の御復活日頃の御聖体拝領と同様欠くべからざる義務として命じている。これを共に拒む者は大罪を免れぬ。されば我等は命の危うきに臨んだら是非その務めを果たそう。死の前に御聖体を拝領し、侵犯者イエズスと和らいで世を去るならば、その審判の庭に出ても必ず寛大な御宥恕の恵みに浴し得るに相違ない。